私が文学について知っているいくつかのこと――古典とジャズを中心に――
0.初めに
文学をこれからはじめる方でも、長く文学に親しんできた方でも、おそらく文学の型や方法論を押し付けられたくないという方はいらっしゃると思います。逆に、どう書けばいいのかと途方に暮れている方もいるかと思います。
今回私がこのエッセイでお教えするのは、私の十二年間で培った文学をやるコツのようなものであり、具体的な方法論の押し付けではないです。しかし、逆にどう書けばいいのかと質問にどれだけ答えられているかもわかりません。
入門の読者にやさしく甘い言葉をかけることも考えましたが、誠実さを重視して、それはしないことにしました。
しかし、その反面、わかりやすい言葉で伝わるように書くことは意識しました。
文学を志す方々のためになることを願い、一筆書きました。
どうぞよろしくお願いします。
1.古典に学ぶ英雄像
古典には物語の原型となる勇敢な物語がたくさんあります。ソフォクレス『オイディプス王』、『コロノスのオイディプス』、『アンティゴネー』、エウリピデス『エレクトラ』、『オレステス』、プラトン『饗宴』(哲学書ですが)、ダンテ『神曲』などさまざまあります。かの中上健次や大江健三郎や村上春樹も古典に範をとって作品を書いていますね。
これらはキリスト教神話を含め、物語の原型であり、それらが多様化して分散し、時代に合わせた形で成立することによって、現代の作品が成り立つ場合が多いのです。
フェミニズム文学やアンチロマン文学であっても、これらの原型からの派生だと言うことも可能と言えば、可能です。
結局は偉大な先人が築いた知恵を、学ぶに越したことはないのですね。
これらの英雄像は、極端に個人的要素や雑多な要素が薄められていて、ほんとうの意味での「私」である多数の他者たちの目線から作り上げられた理想の人物像なので、究極に始原的で美しいです。物語の根幹をなす本質や超本質のみで話が形作られているので、話としても究極です。
悲劇にしても、喜劇にしても、生命の輝きとも言える存在論の最高レベルのものがそこにはあります。
これらの本質や超本質にどれだけ近づけるかが、芸術の理想です。少なくとも言えるのは、いま現在においても、紀元前四〇〇年などの作品が本屋に並ぶということは、それだけの価値があるということだということです。ぜひ一度読んでみてください。
2.タッチ・トーン・リズムを掴む
音楽の言葉にタッチやトーンやリズムという言葉があります。ジャズの世界、特にフリージャズの創始者オーネット・コールマンというジャズマンはこれらを重んじていたようです。
文学は究極的にはタッチとトーンとリズムです。
タッチというのは、簡単に言えば、その人の筆の癖みたいなもので、他の要素を消し去っても消し去れず染みついている匂いのようなものです。このタッチにいかにこだわりを持てるかというのが文学においては重要です。他の文学者の作品を読むときに、どんなタッチで筆を運んでいるかよく読んでみることをオススメいたします。
トーンというのは、作品全体を貫く言葉の質感のようなもので、これが意識されていないと作品は成立しません。アクセントとして言葉をズラして使うにも、その言葉がズラして使われているのかどうかは、全体のトーンから判断できるものだからです。
文章というのは呼吸であり、リズムです。リズムから言葉を紡ぎ出さなければ、美しい文体も成立してきません。なぜなら、呼吸とともに筆の勢いはあるからです。もっと言えば、声です。声が聞こえてこない文章というのはいくら読んでいてもつまらないでしょう。例えば、「私」の声。このボリュームのつまみを上げるように書いていくことが重要で、他の雑多の情報が伝わっても文学作品としては価値がないのです。「声」は大きいほどいいとは限りませんが、「声」が大きいほどインパクトのある濃い作品になることは必然でしょう。
以上は、具体的な方法論ではないですが、私が執筆において重要視している事柄です。みなさまもよろしかったらぜひ、参考にしてみてください。
3.批評を聞き分ける耳
私は以前、「批評を聞き分ける耳」こそは、文学において必要な才能だと聞いたことがあります。それは人生においてもそうですが、人の言うことをただ鵜呑みにしていてもダメですし、逆にすべて突っぱねて話を聞かないのもダメです。適切に相手がどういう意図でもって批評を述べているのかを聞き分ける力が必要になります。
文学の世界は単なる嫉妬心から、さも批評らしい言辞で批判的な物言いをする人もいて、そういう人に引っかかってしまうと、その人の文学は崩壊します。そういう人が自分の文学に責任をとってくれるわけでは決してないということを忘れてはいけません。「あなたにそれができないと言ったのは、いったいどこのだれなのですか?」。「あなたの作品がおもしろくないと言ったのは、いったいどこのだれなのですか?」。よく考えてみる必要があります。
4.文学は書きたいものを入れる箱
以前、Twitterで哲学者の千葉雅也が「文学作品というのは、なにか他のものを入れる箱のようなものだ」というようなことを言っていましたが、この意見には私も同意です。もちろん、文学を志す以上ある程度は文学作品を読んで、文学について知っておく必要があります。
しかし、その文学論が徹底して突き詰められたものでない限りは、文学論だけになってしまっている文学におもしろいものは少ないです。つまり、執筆にあたって他のモチーフになるものが必要になってくるということですね。
私の場合は「ギリシア古典」(文学の一部ですが)と「ジャズ」と「精神病理学」をベースに体験などを交えて作品を書くことが多いです。ジャズは教室にオンラインで通って、ときどき評論とアルトサックスを習っています。最近は時間のあるときに、「サーフィン」の動画を見ています。「防衛論」も関心があります。
手に職をつけるといった意味でも、文学以外の得意分野や趣味などの武器を持つことは重要でしょう。言うまでもないことですが、本人が興味のあるものであればあるほどいいです。
言葉や物事の価値体系を知るという意味でも、いろいろなものに触れるというのは大切なことです。
「華道」や「茶道」や「日本画」や「俳句」(文学の一部ですが)など日本文化から、日本人のこころの学びを得るのもいいでしょう。
5.日本人であるというアイデンティティを意識すること
文学作品というのは、現代に対するアクチュアルな批評性がないとあまり価値がないと言われています。そういった意味で、日本人が文学をやることの意味について、またはどんな方法で先人が成功したかを探っていかなくてはいけないのです。これらは私個人の分析であり、一般論的にも言われていることですが、まとめてみました。
大江健三郎は日本文学の戦後民主主義という思想に、欧米の神話の要素を取り入れることで成功しました。
村上春樹は安保闘争で去勢されてもなお立ち上がる、欧米志向の英雄譚を書くことで成功しました。
よしもとばななは未成年というサブカルチャー的な要素に、ロマン主義の要素を足すことで成功しました。
村上隆は現代アーティストですが、日本の土着の文化やサブカルチャーを欧米に分かりやすくパッキングして輸出することで成功しました。
これらの先人が切り開いた道の次を行くのが、私たちなのです。
どうすれば、海外に通用する日本文化を発信できるか、真剣に検討する必要がありますね。海外に出るほど、逆に日本人であることを意識させられるという内容のことを、村上春樹は述べていますが、日本人としてどう戦っていくかの文化戦略・術策を練るのが文学者の仕事であり、使命であります。
